【関東大震災100年】浅草 凌雲閣
今年は関東大震災から100年の節目。ということでいろいろ調べていたら浅草にあった「凌雲閣」という当時としては高い建物に興味が湧いた。1890年竣工で展望塔として高さ52m・12階を誇ったこの塔は当時の日本で最も高い建築物であったらしい。
浅草の「花やしき」近くに建っていたという立地。当時は娯楽の中心街であったことが想像される場所だ。
池の近いところに見える当時の写真。しかし現在この「ホッピー通り」周辺に南北に長い池はない。
古地図を調べてみたら大きな池があった。そこはホッピー通りに面しているウインズ浅草とリッチモンドホテルの敷地に相当する。
この塔も震災による火災で焼け落ちた。展望台にいた10数名は崩壊によりほとんど死亡したという。消防博物館にも当時の火災イメージ模型が展示されていた。焼け落ちた建物を爆破する貴重なシーンが記録されている。
現在の跡地は雑居ビルになっているが、当時の姿を偲ばせるイラストが壁に貼り付けられていた。奥に花やしきの遊具タワーとスカイツリーが見える。訪れた8月26日のちょうど100年は崩れ去る前、タイムマシンがあれば警告もできるのだが。。。
当時の写真は、凌雲閣 - Wikipedia より
【交通安全】事故をもらわない運転を考える
ドライブレコーダーが普及して事故や交通違反の映像が共有されることが多くなった。自分が無謀な運転をしなくても不意に突っ込まれる「もらい事故」の事例もよく見る。交通安全意識が高い人は「道路上では自分以外は全員キ◯ガイだと思え」という。日頃視聴しているYoutube上の危険場面を交えながら事故回避行動を考えてみる。
高速道路の合流
事故発生率が高いポイントだ。合流車を早期にチェックしてスピードを調整する。そして、ミラーで後方の追越車線もチェックしておく。合流車の数や動きによっては自車が追越車線へ車線変更するが、そのときになっての後方確認では遅いのだ。追越車線が混んでいる場合など車線変更ができない場合は早くからスピードダウン気味に調整が必要になってくる。
追越車線からの復帰
高速道路では車間距離を十分に取って危険回避をする時間的余裕を持ちたい。追越中にすぐに走行車線に戻るつもりでも後ろからベタ付きしてくる車がいる。そんな時は走行車線を走る車の横についた瞬間に左ウインカーを出す。それから5~6秒以上走ってルームミラーに走行車線の車が入ってから車線変更をする。ウインカーを出していれば追越車線を空ける車であると認識し車間を詰める必要がないと思ってくれる(かもしれない)。
対向車線や隣接車線の渋滞時
よくある場面だ。渋滞している車列の間から人や自転車が飛び出してくることがある。いや、絶対に飛び出してくるものとして20km/h~30km/h程度のスピードで走行する。後方の車がイライラして車間を詰めてくるが飛ばしてはダメ。飛び出してくるのは人や自転車で生身の場合が多い。危険回避最優先だ。
右折時の後方確認
交差点の右直事故もよく見る。右折矢印信号が出たので進んだら信号無視の直進車が出てきたとか、反対車線の渋滞で交差点が空いているからと右折したら車の陰からバイクが出てきたとか。最近取締りが強化された自転車の逆走。対向車線や右折先の横断歩道だけを見ているとこの逆走自転車に気づきにくいのだ。上半身をひねっての右後方確認が重要である。
信号のない横断歩道
都道府県によって違う横断しようとしている歩行者がいるときの一時停止率。長野県が80%オーバーでトップ、東京都は約1割しか止まらないとか。これも全国で取締りが強化されている。止まらない人の「急停止したら後ろの車から追突されるから」という言い訳だが、止まる気がないから急停止になるわけで、♢マークが見えたらスピードを落とさなくてはいけないのだ。
青信号での発進
信号が青に変わって見通しが悪い交差点へ進入する時は徐行する。歩行者や自転車の信号無視は多いし、自動車やバイクだって信用してはいけない。交差点は事故率が高い。想定外の事態にすぐに止まれるスピードが重要だ。
【川崎】二ヶ領用水を行く(宿河原〜東高根森林公園編)
散歩コースを検索していたら「川崎散歩ゆるり旅」というガイドマップを発見。いくつかあるコースの中から「長尾の里めぐり」を選定した。宿河原駅からスタートだ。
改札を出ると大きな案内看板。気になるポイントがいくつもあるがコースのとおりに進む。
商店街を進むとすぐに二ヶ領用水に到達。用水路には降りられるようになっている。川岸には枝ぶりがいい桜の並木。これが奥まで続いている。混みそうだが春にも訪問したい。
「川崎市緑化センター」が見えてきた。昭和54年に緑の相談所としてオープンしたこの施設、親子が「じゃぁ、緑化センター行こっか」と近所の人たちに親しまれているようだ。
地名の長尾というだけあって途中から長い尾根を行くコースになっている。息を切らすと北東方面の眺望が開けてきた。
最初は地図とにらめっこだったが高台あたりから案内看板が点在していた。
ここで東名高速を渡る。流石にフェンスが頭以上の高さだ。
目的地の「東高根森林公園」に到着。
テーブルがあったのでコーヒーを入れて休憩。この防災用加熱袋「モーリアンヒートパック」は完全に沸騰するわけではないがコーヒーとかアルファ米とかには重宝する。
まだまだ奥の方を探検していないが暗くなりそうだったので公園を後にした。コースからは外れるが、急坂を降りきった先の県道14号でバスに乗り、溝の口駅から南武線にて帰路についた。
続編はこちら。
【山気分散歩】鎌倉広町緑地〜鎌倉山〜大仏切通
本格的な山までは行かないでアクセスの良いエリアで山気分を味わおうという企画。今回は鎌倉を西から東へ横断した。
湘南モノレールは西鎌倉で下車。買い出しをしようと検索したら駅前にスーパーがあった。ラッキー♪
先ずは「鎌倉広町緑地」を目指す。住宅街を抜けると突然入口が見えて来る。途中の道案内は一箇所のみ、マップを見ながらでないと辿り着くのがむずかしい。
管理事務所で案内マップをもらいコースを検討。眺望が良い右手の外周路へ進む。
富士見坂で目を凝らすが、この日はぼんやりとしか見えなかった。
コースは尾根を進む。道には根っこがたくさんあり、土が流されてるのか歩きにくい所もある。
大桜への道が行き止まりなので誰も来ないだろうと店を広げる。緑地内は火気厳禁なので防災用品として昔買った「火を使わない湯沸かし」を初開封。酸化反応で熱が発生する仕組みだが水がグツグツ煮えたぎることはない程度。ま、今回はアルファ米なので問題なし。スーパーで買った刻みネギが効果的だった。
鎌倉山という土がない高級住宅街を抜けて大仏切通を目指した。GoogleMap上にはピンが立ってはいるもののそこへのルートが表示されていない。ググったら「バス停の先を曲がって」という情報を得て進むも目的地から離れるばかり。別のページでルート表示を見つけ突撃する。が、民家の裏手で行き止まり。ではなく、そこを進むルートだったのだ。これはわからなかった!1kmぐらい迷ってしまった。
切通を抜けたら雨がポツポツと。足も痛くなってきたのでバスで鎌倉駅まで。明日以降の筋肉痛が怖い。
【東北震災遺構2018】③たろう観光ホテル
東北震災遺構めぐりも最後の目的地へとたどり着いた。岩手県宮古市田老地区、津波で街が全滅になってしまったところだ。
旧堤防と新堤防。古い方は一部損壊していた。新しい堤防は海寄りにより高く建設されていた。
津波到達地点の表示は港湾施設と岩山に設置されている。今回の津波が如何に高いかがよくわかる。
報道でもよく紹介されていた震災遺構「たろう観光ホテル」。1階と2階は津波で骨組みだけになっていた。
あらかじめボランティアガイドを申し込んでいた。ガイドと一緒でないと中に入れないのだ。ガイドによる案内で客室内を見学、3階以上は何もなかったようにキレイな状態で残っている。さらに奥の部屋へと案内され、そこでホテルの社長さんが撮影した津波到達時のビデオを見る。沖合から黒い塊が迫ってくる、そしてホテルと海岸の間を消防車が走り抜ける。その直後堤防を安々と越えて迫ってくる大津波。映像で見ても迫力があり恐怖感を覚える。目の前でリアルに体験したら腰を抜かすだろう。実際、ビデオ映像は津波がホテルに到着するときの一瞬、カメラが上を向いてしまっている。本人は覚えていないそうだが自然と体が避けたのだろう。
このホテルの社長さんは防災意識が高かったようだ。津波以前から掲示されている張り紙、従業員も全員無事だったそうだ。ホテルは近くに新築された。しかしこの被災建物は遺構として残すことを決めたのだ。石碑や碑文だけではすぐ忘れ去られる。これだけ大きい遺構でいつまでも危険に備えることを忘れないようにという思いだろう。次世代につなげて行きたい。
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【東北震災遺構2018】②石巻市立大川小学校
震災遺構2カ所目は石巻市の大川小学校へ。カーナビに「大川小学校」と入れて走り、到着すると報道で見た風景ではない別の小学校だった。校舎がなくなったので近くの小学校と合併となったようだ。「震災遺構」で調べてたどり着いた。
震災から7年以上経ったこの日もたくさんの花が手向けられていた。手を合わせてから先に進む。
津波に合う前のおしゃれな建物が偲ばれる残骸は静かに佇んでいた。緑と川そばの小さな町にこのような立派な小学校で児童たちも楽しく学んでいたんだなと想像した。
コンクリートの構造物も津波の力によってなぎ倒されていた。生身の人間が耐えられるはずがない。
校舎の奥には裏山、確かにすぐ近くにあり登るのも難しくなさそうだ。
いろいろ調べていくとこのハザードマップにたどり着いた。防災関係者で事前の情報が頭に入っていた人間ほど大川小学校は安全と思ってしまったのではないだろうか。結果的には負の防災対策になってしまった。
しっかりした防災計画と想定内だけにこだわらない人間の勘や本能などの総動員が生き残るためには必要になってくると感じた。
【東北震災遺構2018】①仙台市立荒浜小学校
震災から7年を過ぎた東北は宮城県と岩手県の被災地を巡ってみた。
まずは「仙台市立荒浜小学校」。ここは仙台市中心部から直線距離で10km程度離れた太平洋沿岸部にある。海岸から700mしか離れていない校舎は震災遺構として仙台市によって保存・管理されている。外観は一見キレイだが・・・
校舎内は自由に見学できるようになっている。津波は4.6mまでの高さで押し寄せ1Fと2Fを飲み込んだ。91人の児童と地域住民ら320人は屋上に避難して無事だったとのこと。その後、夜を徹して自衛隊のヘリで救出されるが一部の大人たちは翌朝徒歩での避難となったらしい。
津波の威力は強い。鉄の柵やコンクリートの構造物まで破壊する。生身の人間が対抗できるわけがない。
海抜5mもない平坦な街。ここには800世帯2,200人の人々が住んでいた。そこへ10m以上の津波が襲ったのだ。小学校以外のすべてが押し流された。右に見える黒い集団は墓石のようだ。おそらく流された石を元の墓地があった場所へ戻したのだろう。隣のお寺は跡形もなく流され更地になっていた。
この日は風が強く波打ち際に高い白波が立っていた。遠くから見ると防潮堤は低いように見える。小学校から海岸までには何もない。
みんなが避難した屋上も公開されている。320人が避難し救助を求めたこのスペースは災害時に利用できるように整備されていた。3月上旬で雪が舞う季節、児童たちは一旦4階の廊下に待機させたほどの寒さだったようだ。
沿革には明治6年開校と記されている。143年の歴史は津波によって閉じられたが校舎は残った。記録ビデオの中で校長先生が説明していたが、防災計画として校舎の隣りにあった体育館は全く避難先の対象にしていなかったとのこと。校長の意識が高かったのかこの小学校では防災計画がきちんと出来ていたようだ。
GWで子供連れも多く見学していた。これからの社会を作る子どもたちにもこの教訓を受け継いで生かして欲しい。そのための遺構だから。