【鐘ヶ淵】古代東海道〜【玉ノ井】荷風が歩いた私娼街
浅草のイベントが昼に終わったので喧騒を逃れて鐘ヶ淵へ。ランチと散歩を目的に。
平屋の駅舎から改札を出ると歴史解説の看板が目につく。一応写真に収め、胃袋の司令のままに飯屋を探す。
駅前のアーチから店がありそうな道へ。「鐘ヶ淵駅前商店街」という名前らしいが昔は「商栄会」として組合組織があったようだ。
13時過ぎの腹ペコでこの看板。もう何でもいいからと目の前のコロラドに滑り込む。胃に優しそうなビーフシチューを注文、けっこう当たりだった。
腹が落ち着き、先へ進むとお目当ての理髪店。
このファサード、この傾き。おいしい。調べて知っていたが閉業である。コロラドで聞いたら昨年に閉めたらしい。現役の営業を見たかった。
先にも閉業と思われる理髪店。「カネボウバーバーチェーン」との表示が土地柄らしい。
曲がった先に「田中湯」、現役らしい。
丸柱にタイルの目を引く建物。だが曲線がつかわれてない構造。ここはまだ鐘ヶ淵駅の西、昔の煙草店跡だろうか。
路地へ進むと見るからに廃墟な物件。流石に空き家のようだった。
鐘ヶ淵といえば有名居酒屋「はりや」があった。元の場所は跡形もなく再開発されていたが新店舗が押上で営業するらしい。こんど覗いてみよう。
駅前の看板に解説があった古代東海道を思い出し、古地図を見てみる。やっぱり神社仏閣は昔からあって動かないので目印になる。
この通りにも理髪店があったが現役で営業しているようだ。
踏切を挟んで西と東の道路。拡張中で駅前ロータリーも視野に入っているらしい。
古代東海道から脇道に入る。古地図では池のような表示になっているが、そこには住宅が並んでいる。近くで痕跡を探してみると。。。
これは池を囲っていたフェンスなのか?ラインから見るとそんな感じ。別の古地図を見ても鐘ヶ淵駅周辺には池が点在していたのがわかる。
1922年 大正11年 古地図 鐘ヶ淵紡績
— Shinya 浅草 空 (@tokyoskytree777) 2020年9月25日
1923年 大正12年 関東大震災
わたしの祖母が務めていた鐘ヶ淵紡績
祖母は、勤務中、大地震に襲われたそうですが、
どうにか、無事だったそうです。
南千住 石浜神社辺りの町名が地方橋場になっています。
汐入には、大きな池のようなものが。 pic.twitter.com/BVXq9hqGNC
チェックしていたファサードが良さげの「墨田湯」。見事に消滅していた。残念。
在りし日の外観があった。
東武線沿いに進むと「酒処たんぽぽ」。入口ドアの角度がすごい。酒処とあるがカラオケスナックらしい。やっぱり。
こちらは見るからにカフェー建築だ。しかし残りは少ない。貴重な物件、拝みながら記録した。
裏を取れる記事があった。
事前にストリートビューでチェックしていたスナック長屋の「せいこ」。ここも無くなっていた。ここの壁は撮りたかったのだが。。。
角を曲がるとそれらしい意匠の「美容 花園」。当時はどんな色の明かりが窓に映っていたのだろう。
路地から「玉ノ井いろは通り」に出ると見えてきた「玉ノ井カフェ」。もちろん現代のカフェには私娼はいない。
歩いている最中、玉ノ井カフェで唯一発見と思っていた玉ノ井という地名。記事を書いている最中に気づいたが「東向島駅(旧玉ノ井)」とあるではないか。2回駅名が変更されているとの記述があった。
古き良き、下町情緒が漂い「東武博物館」のあるこの町は、明治35年開設当初の「白鬚駅」から、一時閉鎖したのち震災後の急激な花街の発展によって「玉ノ井駅」と改称し営業開始。その名は、悪大官がこの地に囲った愛妾(あいしょう)の名だと伝えられます。昭和63年、惜しまれながら住居表示にならって現在の駅名に改称されました。
「玉ノ井」を調べていくうちにたどり着いたのが永井荷風作の「濹東綺譚」。当時の街についての情報がないかと読み始めたら、これがおもしろい。実はこの手の本、ほどんど読まない人間だが当時の風景が想像できる実体験ならではの文章で引きずり込まれている。ギリギリ同じ空気を吸っていた世代。親族だったらおじいさんか。
夕立が降りそうな日に傘をもってリベンジするか。